社長の一言集
第220号「恵まれない幸せ、恵まれる不幸せ」
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「恵まれない幸せ、恵まれる不幸せ」
2024年220号
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先日、大谷翔平選手の50-50記念ボールが、約6億6600万円(439万2000ドル)で落札されました。
彼が望んだナショナルリーグ制覇とワールドシリーズへの挑戦は見事に実現し、世界一をかけた、ヒリヒリする夢の舞台での活躍が続いています。
今年、試合中継を観戦していて目に留まったのは、ドジャー・スタジアムの「DAISO」と書かれたピンクの看板です。非常に目立ちます。
調べてみると、株式会社大創産業(代表取締役社長:矢野靖二)が2024年から複数年にわたり、米国プロ野球メジャーリーグベースボール(MLB)所属のロサンゼルス・ドジャースとスポンサーシップ契約を締結していることが判明しました。
ドジャースは年間400万人の来場を目指す、米国で愛されるメジャーリーグのチームのひとつであり、今年は大谷翔平選手や山本由伸選手の加入で大きな注目を集めています。DAISOの広告効果は想定以上の結果を出しているようです。契約金額は公表されていませんが、大創産業のグローバル運営本部長の鈴木拓取締役は、「今は投資をする時期。知ってもらうことを優先している」と説明しています。
大創産業の店舗で取り扱う商品の約7割が海外生産です。急激な円安に振れた2022年度は「つぶれるかと思った」と、大創産業の矢野靖二社長は当時の危機を振り返ります。
「人口が減る中で、外を向くしかない」、「円安の逆風を追い風に変える」という信念のもと、あらゆる努力を重ね続けてきました。
そして現在、「円安がなければ、ここまでできていなかった。円安があって強くなった」と、海外戦略のための努力と挑戦の手ごたえを語ります。
大創産業は2005年に米国に進出し、現在の約120店舗を一気に1000店舗まで拡大し、米国を足がかりに次はインドへと、グローバル企業への脱皮を目指しています。
矢野靖二社長は、今年2月に亡くなった父親である大創産業創業者、故矢野博丈氏が残した言葉を常に大事にしているそうです。
それは、「恵まれない幸せ、恵まれる不幸せ」という言葉です。
故矢野博丈氏は、人生で幾多の苦労に見舞われると、自分は「恵まれない」と悲観するものですが、もっと徳を積み、
そこに幸せの芽を見つけなさい、困難に揉まれ、人間が鍛えられた先に、回り回って徳や運が必ず味方につき、自ずと運命は拓けていく。
「苦労ほど有り難い恵みはない」。また、「恵まれることは不幸が訪れる序曲」と語っています。
月刊誌『致知』 2019年2月号
「不可能を可能に変える経営哲学」
鈴木敏文氏(セブン&アイ・ホールディングス名誉顧問)、矢野博丈氏(大創産業会長/当時)のインタビューから 矢野博丈氏のお話
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僕が毎年、新入社員に言うのは「人生は運だ」と。
で、運というのは半分は持って生まれてくるけれども、あとの半分は自分でつくるものだと。
だから、学校の勉強はいまからせんでもいいけど、人に好かれるにはどうしたらいいかとか、人を喜ばせるにはどうしたらいいか、そういう心の勉強はしないといけんよと言うんです。
僕自身、20代の頃は運命の女神を憎み続けていましたが、ある結婚式に参列した時に、京都のお坊さんがこんな話をしていたんです。
「仏縁に導かれたお二人だから、きっといい夫婦になられるでしょう。
けれども、好むと好まざるとに拘らず、これからお二人には艱難辛苦が押し寄せてきます。
それを乗り越えたら、きっといい人生が送れるでしょう。人生にはいろんなことが起こりますけど、無駄は一つもありませんよ」と。
その言葉を聞いた時は、「何を言うんだ。俺の人生、無駄しかないじゃないか」と思って腹が立ったんですけど、ふと考えてみると、仏さんがこいつは見どころがあると思って、人の何倍も艱難辛苦を与えてくれたんじゃないか。
運が悪いと思い続けてきたけど、もしかすると運がいいんじゃないか。
そう思うようになってから、少しずつ心のモヤモヤが晴れて、いいことが起きるようになりました。
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故矢野博丈氏の経歴ですが、大学卒業後、土木会社に就職しました。その後、くず屋の手伝いやハマチ養殖業に挑戦しましたが失敗し、兄から借りた700万円(2024年の貨幣価値で約1億円)の借金を踏み倒して妻子を連れ東京へ夜逃げしました。東京では百科辞典販売、ちり紙交換、兄のお抱え運転手、義兄の経営するボウリング場での仕事、道路標識の設置、日雇いの肉体労働など、さまざまな職を転々としました。
1970年代初め、大阪で移動販売に興味を持ち、日用雑貨や金物を売り始めました。それが意外に好調で、夫婦二人三脚で「矢野商店」を創業しました。これが現在のダイソーへと発展しました。ダイソーを始めた当初、もし倒産したら妻と共に山奥に逃げ、温泉宿に雇われて妻が賄いをし、自分が風呂たきをしようと真剣に考えた時期もあったそうです。
恵まれないからこそ努力し、鍛えられ、知恵が出て、そして良いご縁に繋がるのですね。
故矢野博丈氏の人生は、想像を超える艱難辛苦の人生だったと思いますが、しっかり後継者の靖二氏にその貴重なDNAは引き継がれているようです。今後の大創産業さんのグローバル展開を心より期待します。
株式会社リゾーム
代表取締役 中山博光