社長の一言集

第185号「担ぎ続けぬ心」

2021/11/30

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「担ぎ続けぬ心」

                2021年185号
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コロナ禍、米中対立等により世界的な不安が続いています。
非常事態宣言は解除されましたが、まだまだ予断は許しません。
経済の伸びは鈍く、K字回復で、業種や会社によって回復の二極化が拡大しています。

政府は今月19日、給付金を柱とする55.7兆円の経済対策を決定しましたが、目先の守りの打ち手ばかりで、攻めの成長戦略等の効果は期待出来そうにありません。

コロナ禍の渦中で、私たちは自らの力で、新たな気づき、小さな希望を糸口に、立ち直りの道を探し、速やかに行動に移さなければいけません。

田坂広志氏 多摩大学大学院・名誉教授 田坂塾・塾長
「人間を磨く 『不動心』の彼方」
『理念と経営』コスモ教育出版社 2021年8月号より
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日々、様々な難題に直面する経営者やリーダーには、「不動心」が求められる。
では、「不動心」の真の意味は何か。そして、その「不動心」を身につけるための修業は何か。その修行を続けたとき、我々は、いかなる世界に向かっていくのか。

「不動心」の真の意味

かつて、人間の「不動心」について、興味深い心理学実験が行われた。
一人は、最近、座禅の修業を始めたばかりの若者。もう一人は、永年、禅寺での厳しい修行を積んだ禅師。その二人に、座禅中の脳波の測定実験を行ったのである。

最初、二人同時に、座禅による瞑想状態に入ってもらい、その脳波をそれぞれ測定したところ、二人の脳波は、いずれも整然とした波形を示し始めた
そこで、実験者は、二人を驚かせるために、突如、大きな音を立てたのである。
すると、二人の波形は、いずれも、大きく乱れた波形を示した。
すなわち、永年修業を積んだ禅師も、修行の入り口の若者と同様、その音によって心が乱れ、決して「不動心」ではなかったのである。

しかし、実は、この実験、その後の二人の脳波が大きく違った。

若者の脳波は、音が静まった後も、いつまでも乱れ続けたが、禅師の脳波は、すみやかに、もとの整然とした状態に戻ったのである。
この興味深い実験結果は、「不動心」の真の意味を、教えてくれる。

「不動心」とは、「決して乱れぬ心」のことではない。

「不動心」とは、「乱れ続けぬ心」のこと。


されば、我々経営者やリーダーに求められる真の「不動心」とは、何か。
それは、どのような危機が起こり、いかなる難題が生じても、「心が微動だにせぬ」という意味での「不動心」ではない。
生身の人間であるかぎり、一瞬、心が大きく揺らぐことがあってもよい。

しばし、心が穏やかならぬ状況に陥ってもよい。
その直後、心が戻っていくべき場所を知っていること。それが、経営者やリーダーに求められる。

すなわち、優れたテニスプレイヤーが、大きく大勢を崩しながら球を打ち返した後、すぐに、大勢を正位置に戻すように、優れた経営者やリーダーは、何があっても、すぐに、「心の正位置」、すなわち「平常心」や「静寂心」に戻ることができるのである。

「不動心」を掴む修行の技法

では、この「心の正位置」を定めるために、どのような修行を積めばよいのか。
筆者は、拙いながら、その修行として、何かの難題に直面し、心が乱れたとき、必ず、次の様に心の中で唱えることを行っている。

自分の人生は、大いなる何かに導かれている。
されば、この問題は、自分の成長のために、大いなる何かが、与えたもの。
ならば、これを糧として、成長していこう。

有り難うございます。

導きたまえ。

そう祈ると、不思議なほど心が静まっていく。

では、永年の経営やマネジメントの体験を通じて、その心の修業を続けていくと、我々の心は、いかなる世界に向かっていくのか。
そのことを教えてくれる寓話がある。
禅の世界では、よく知られている、次の寓話である。

仏道の修業をする師と弟子が、旅をしていた。その旅の途上で、川に差し掛かったところ、若い女性が、川の前で立ち往生をしていた。
着物の裾をあげ、川を渡ろうとしたのだが、流れが急で、渡れなかったのである。

それを見た弟子は、若い女性に心を惑わされてはならぬと、一人で川を渡ろうとした
しかし、師は、黙って歩み寄ると、その肌も露な女性を肩に担ぎ、川を渡した。

女性の礼の言葉を背に、二人の修行僧は、その先にある山道を登り始めた。
山道を登り終え、坂道を下り、その山を越えたところで、思い余った弟子が、耐え切れず、師に聞いた。

あれは、許されぬことではないでしょうか?

若い女性を肩に担ぐなど、修行の身で、してはならぬことではないでしょうか?
それを聞いて、師は、微笑みながら答えた。

おや、お前は、あの山を越えても、まだ、あの女性を担いでいたか。

この寓話は、何を教えてくれるのか。
それは、「担ぎ続けぬ心」の大切さである。

何物にもこだわらぬ天衣無縫、融通無碍の心の世界。
それは、「乱れ続けぬ心」という「不動心」の修業の彼方にやってくるものであろう。-------------------------------------------------------------------------------------------

「天衣無縫」は、中国の古典の有名な言葉ですが、「その人の生き方、行動に狙った様子がなく、自然さにあふれ、自由で洗練されている。」という意味だそうです。
この境地に達した師の「担ぎ続けぬ心」という言葉は、おもしろく分かりやすい教えですね。
又、明治時代の俳人、正岡子規が病床で残した随筆集「病床六尺」の中の言葉も心に響きます-------------------------------------------------------------------------------------------

余は今まで禅宗のいわゆる悟りといふ事を誤解して居た。

悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違いで、

悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。

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今の世の中、平気でなくても、平気で生き抜く胆力が必要です。
凡人には、悟ることは大変困難ですが、どんな時でもどんな事がおころうとも、速やかに平気を

取り戻し、感謝を生み出すことで、「災いを福に転じ、自らの大きな成長のきっかけになる。」のではないかと思います。

{コロナ禍を担いでばかりはいられません。

株式会社リゾーム
代表取締役 中山博光