社長の一言集

第122号 「善きことのみを念ぜよ。必ず善きことくる。」

2016/08/17
----------------------------------------------------------------------
善きことのみを念ぜよ。必ず善きことくる。
                            2016年122号
----------------------------------------------------------------------
8月は終戦記念の月ですが、今年はリオオリンピックの応援モード一色です。
体操、水泳、柔道、卓球等、選手たちの大健闘の様子が連日放映されていま
す。その選手たちのインタビューには、必ず家族、特にお母さんへの感謝が
込められています。

しかし、偉大な成果を成し得た人物だけではなく、どんな時代にも子供の為
に全てを犠牲にして生きてきた親の愛があります。

「母との葛藤」 藤原咲子(高校教師・エッセイスト)
                                     『致知』2007年2月号致知随想より
----------------------------------------------------------------------
 私は昭和二十年、終戦の一か月前に満州国新京市(現在の中国長春市)で生
 まれました。
 終戦後、父が捕虜収容所に送られたため、母は数多くの死体が横たわる中、
 一人で幼い二人の兄の手を引き、生まれたばかりの私をリュックの中に隠し
 て、命からがら引き揚げ船に乗り込んだといいます。

 当然私にその時の記憶があるわけではありませんが、ほどけかけたリュック
 の隙間から見えた北極星と、引き揚げの異様な空気はなぜか鮮明に覚えてい
 ます。

 壮絶な引き揚げで衰弱した母は、帰国後病の床に臥しました。
 死病と恐れられた肺結核でしたから、子どもたちは近寄ることを許されませ
 ん。

 事情のわからない私は、ただただ母の温かい愛情が欲しくて、窓越しに母の
 様子を見ていました。
 幼稚園から帰った私に「咲子、おいで」と言って、木綿の布団をそっと開け
 てくれる母の姿をどれだけ夢見たでしょうか。

 病との闘いに奇跡的に打ち勝った母は、やがてその壮絶な引き揚げ体験記
 『流れる星は生きている』を書き上げ、作家藤原ていとして一歩を踏み出し
 ました。
 だがそこにいたのは私がずっと待ち続けてきた温かくて優しい母ではありま
 せんでした。
 幼子三人の命を失うことなく引き揚げという苦境を乗り越え、成功者として
 社会から讃えられる母だったのです。

 私は兄たちよりずっと厳しく育てられました。少しでも甘えようものなら
 「あんなに苦労して連れて帰ったのに、いつまでもわがまま言うんじゃない
 の」という言葉が返ってきました。

 お母さん、どうしてそんなに怒るの、私が嫌いなの?引き揚げ時の栄養失調
 で多少の言葉の遅れがあり、友達とうまく話すこともできず、学力でも兄た
 ちに追いつけない私は、いつの間にかすべてに自信を失っていました。
 と同時に、私が生まれたことが母には不満だったのではないかと、様々な憶
 測が頭の中をよぎるようになりました。

 子どもの頃の私の楽しみは何よりも読書でした。
 図書室や家庭の書棚にあるいろいろな本を引っ張り出しては、本の世界に浸
 りました。
 しかし、母の『流れる星は生きている』だけは、どうしても手に取る勇気が
 ありませんでした。幼い頃、一体何があったのか。その疑問が解かれるのが
 恐かったからです。

 しかし、中学受験が間近に迫った十二歳の頃、そのストレスから逃げるよう
 に『流れる星は生きている』を読んでいる自分に気付きました。
 そしてその本の中で私のことを描写している数行を発見したのです。

 「咲子が生きていることが、必ずしも幸福とは限らない」
 「咲子はまだ生きていた」

 ああ、お母さんはやっぱり私を愛していなかった......。
 一人の赤ん坊を犠牲にし、二人の兄を生かそうとしていたのです。
 これを読んだ時はしばらく声を失い、呻き声をあげていました。

 たった数行が母の私への不信を生み出し、それから五十年もの間、母への反
 抗が続きました。

 私は火がついたように母に食ってかかり、母を責めるようになりました。
 母が涙を流し、「あんたなんか連れてこなきゃよかった」と言うまで諍いは
 終わりませんでした。

 三年前の平成十五年、私は整理をしていた書庫から偶然にも『流れる......』
 の初版本を見つけました。
 約五十年ぶりに茶色の木皮の紋様のカバーを開くと、そこには「咲子へ」と
 いう見慣れた母の字体がありました。

 「お前はほんとうに赤ちゃんでした。早く大きくなってこの本を読んで頂戴、
              ほんとうによく大きくなってくれました。母」

 現在と変わらぬ美しい字体で書かれたこの一行は、強く閉ざした私の心をひ
 と突きにし、私の中の何かが崩れ落ちるのを感じました。

 十二歳の時に目に留まった「まだ咲子は生きていた」の一文は母の落胆では
 なく、劣悪な状況下で健気に生きていた私への感動だったのだとこの時よう
 やく気付いたのです。母に対する気持ちが和らぎ始めたのはそれからです。

 そんな母もいま米寿を迎え、数年前から認知症に侵されています。
 病状が進むにつれて母は穏やかになり、反発していた私にも優しく接するよ
 うになりました。

 病が進み始めた頃、伊豆の別荘に母と何度も行きました。
 駿河湾と富士山が見渡せる場所に車を停め、漁船の走る海を母と眺めました。
 私は一歩後ろへ下がり、母の病状を観察するかのように
 「ほら、イカ釣り漁船が行くねぇ」と話しかけました。
 すると母は、「バカだねぇ、お前は。あれは引き揚げ船だよ」と力強い眼差
 しで海を見ているのです。
 この時の母の横顔に思わず私は息をのみこんで、涙を抑えることができませ
 んでした。

 たった一人で幼子三人と日本に引き揚げた時の母の孤独感、人に言えない苦
 労が刻まれた横顔に強い寂寥感を感じたのです。

 その寂寥感は私の中のそれと重なり合い、気がつくと私は母をこの上なくい
 とおしく思うようになっていました。

 人が人を許し、人に優しくすることを知った時、初めて人は心の静まりの中
 に真実が見えてくる──。
 母はそれを身をもって私に伝えてくれた気がします。認知症は私にじっくり
 母と向き合うきっかけを与えてくれました。
 私を一人前にするために厳しく育ててくれた母に、いま心から感謝していま
 す。
----------------------------------------------------------------------
何度読み返しても、母娘の海を眺めながらの会話に思わず涙してしまいます。

又、終戦前に知覧で特攻で散っていた若い隊員さんのために、母親代わりにな
って私財をなげうって尽くされた「特攻の母」の鳥濱トメさんのような方もい
らっしゃいました。
----------------------------------------------------------------------
 善きことのみを念ぜよ。必ず善きことくる。命よりも大切なものがある。
 それは徳を貫くこと。
----------------------------------------------------------------------
終戦から70年以上が過ぎました。
しかし、どんなに時代が変わろうとも、「徳(感謝)」と「仁(思いやり)」の重
要性は不変なのではないでしょうか。

                       株式会社リゾーム
                        代表取締役 中山博光
                        
+---------------------------------------------------------------------+